
特集
2008-12-31 14:46:06
福島康司物語 Part 1

Photo by Hitoshi OMAE
2008年12月1日、突然の引退を表明した福島康司。ファンの来期への期待をよそに新しい道を選んだその想いの内はどのようなものなのだろうか?
彼がこれまで歩んできた軌跡を振り返りながら、これから進む道を追いかけた。
「幼少期と挫折の日々」
1973年8月21日、福島康司は、兄・晋一の弟として岡山で産声を上げた。
父親は仕事の関係で転勤が多かった。赤ん坊の頃に父の転勤で大阪へ移り、小学2年生ではさらに岩手に転校した。岩手の転校する際、担任の先生に
「大阪の恥にならないように」
と言われたそうだ。
小学校の集合写真はいつも友達に顔を雪に埋められているものばかりで、どちらかと言うと『いじめられっ子』だった幼少期。それでも多くの友達に囲まれ、充実した小学6年間を楽しく過ごすことになる。
小学校では金管クラブに所属していた。5年生のとき、トランペット担当を目指して他人の3倍練習したがうまく吹けず、結局看板持ちを担当することとなった。
当時の様子を康司は、
「中途半端な気持ちで看板を持って立っていたら、顧問の先生に怒られた。それ以降は先生に降ろしていいよと言われてもずっと持ち続けた。東北大会に出場したときも看板持ちで行き、看板拭きに精を出した」
と振り返り、幼い頃から負けず嫌いの一面が見え隠れした。
6年生になると
「唇が厚いので大きな楽器の方が向いている」
と顧問に勧められ、ユーフォニアムと言う楽器を始めた。これが康司に合っていたのか、ソロ演奏を担当するまでに上達した。
「ソロを任されたことで、頑張れば上達するということを初めて感じた」
と振り返る。
スポーツを始めたのは中学生になってからだった。サッカーがうまかった2つ年上の兄、晋一の影響でサッカー部に入った。しかし、康司にサッカーの才能はなかった。中学2年の途中で再び転勤で大阪に移り住んだ先の中学校でもサッカー部に所属したが上達はしなかった。
そんな彼に転機が訪れたのは、中学3年での校内マラソン大会だった。なんと優勝してしまったのだ。驚いたサッカー部の先生が陸上競技部への転部を勧められ、転部した。高校入学と同時に本格的に長距離走にのめり込み、1年生の時には大阪府大会の学年別1500メートル走で3位に入賞した。康司の輝かしい陸上競技生活が始まった。
高校3年生の時に父の転勤で沖縄に移ったあとも、3000m障害走で沖縄県高校記録を樹立した。この成績が認められ、スポーツ推薦で京都の立命館大学に入学することになった。
しかし、輝かしい陸上競技人生はそう長くはなかった。
大学1年目で致命的なケガをし、あえなく選手引退の道を選ぶことになる。未練を残しながらマネージャー役に転向したが、その後の大学生活は挫折の日々となった。
「それまでちやほやされていたが、ケガをしたことで全てのことがうまく行かなかった」
と康司は振り返る。
アルバイトを始めても3日でクビになり、下宿先では半ば引きこもり状態となり、体重は90キロほどに膨れ上がった。履修していた中国語の先生がかわいがってくれたおかげで、週に1度の中国語の講義は受けに行ったが、それ以外の講義は受けなかった。
そんなどん底の時代に出会ったものがあった。
ハーモニカだ。
偶然にも運命的な出会いだった。
Part 2へつづく
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