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特集

福島康司物語 Part 3
「始動」

『チームリマサンズ』は現在エキップアサダのチーム代表でもある浅田顕が監督として指揮していた強豪アマチュアチームだ。浅田監督の下で必死にトレーニングを積み、2年目で兄の後を追うようにフランスへ渡り、フランス国内アマチュアのレースを走るようになった。陸上競技で培った体力は自転車ロードレースでも充分に実力を発揮した。フランス1年目の1999年は5勝する力を見せた。その後も数々のレースで好成績を残していった。

日本で「福島康司」の名が知れ渡るようになったのは、2001年のジャパンカップだった。当時の日本人選手としては珍しい「逃げる走り」で12位に入った。
2002年にはナショナルチームのメンバーとして初めて『ツール・ド・ランカウイ』(マレーシア)に出場し、山岳賞ジャージを5日間着用した。しかしこの年は春先、派手に落車し、顔面を50針縫うケガを負った影響で、それ以外の目立った成績は出せなかった。

ジャパンカップ2003 JPCAで走る福島康司

翌2003年は全日本選手権で兄の晋一が優勝した時、康司は兄をアシストをして4位に入っていた。この成績が、当時「チームブリヂストン・アンカー」の監督だった浅田の目に留まり、7年目にしてようやくプロ入りすることとなる。
 2004年のプロ1年目。康司は『ツアー・オブ・セルビア』(セルビア)で初日に逃げきり優勝しあと6日間リーダージャージを守り続け総合優勝を果たした。『ツール・ド・チャイナ』(中国)でも、第3ステージで優勝したあと、総合優勝を獲得した。結局、プロ1年目で5勝をあげるという輝かしい成績を残した。

プロ2年目の2005年になっても好調は続いた。『ツアー・オブ・サイアム』(タイ)のプロローグで優勝。続いて『ツール・ド・ランカウイ』(マレーシア)の第3ステージで康司は、スタートして間もなくアタックし一人でアタックした。独走し続ける康司の雄姿は国際電波にのって日本中のロードレースファンたちを釘付けとなった。独走開始地点からゴールまでは170キロメートル。あまりにも先は長く、さすがにゴールまでは持たないだろうと思われた。しかし、康司は歯を食いしばって走り続け、そのまま独走してゴールした。アジア最高峰のレースで日本人として初優勝を飾った。

ツール・ド・ランカウイ2005 第3ステージでの独走勝利。Photo by Hitoshi OMAE

「自分が勝てるとは思っていなかった。でも、気持ちよく走れた。応援もすごく嬉しかったし、前年はナショナルチームに選ばれずこのレースに出場できなかったから、その悔しさもあった。過去2回出場した時も3日に1回は逃げていたけど、ラスト500mや600mで捕まっていた。プロのレースでは逃げきれたことがなかったから、絶対追いつかれると自分でも思った。ラスト5キロから、集団は時速60キロで走っているのに、自分は時速30キロしか出ずヘロヘロだった。それでも優勝できたのはラッキーだった。」
と康司は謙虚にレースを振り返る。
運が味方したのもあるだろうが、やはり一人で逃げきるには、走り続ける体力や諦めない精神力が必要だ。一人で走り続ける康司の姿は、日本のみならず世界中で放映され多くの人々に感動を与えた。このステージ優勝の結果、総合トップになり、リーダージャージを5日間着続け、最終的にはアジアリーダーとなった。

ツール・ド・ランカウイ2005 第3ステージ表彰式 リーダージャージを着て記念撮影。下はチームメイトの宮澤崇史。 Photo by Hitoshi OMAE

この活躍で康司は一躍有名となったが、その名声が逆にこの後、彼にプレッシャーとなって圧し掛かることになる。「ツール・ド・ランカウイ」の後、フランス拠点に戻ってからのレースでは、無謀なアタックばかりを試み、全く結果が残せなかった。ついには浅田監督に
「ランカウイだけで満足するなら、来年チームに残れない」
と警告を受けてしまう。その一言のお陰で、落ち着いて走れるようになり、『シルキュイ・デ・ロレーヌ(UCI2.1)』(フランス)の第1ステージで絶妙なアタックをして3位に食い込み、総合2位でレースを終えた。

翌年2006年は気負いからかシーズン前にオーバートレーニングとなり、春先にはすでに疲労困ぱいだった。5月のツアー・オブ・ジャパン後は、まるまる3週間、自転車にも乗らず完全休養していたほどだった。回復の様子をみて、少し練習を再開し始めた矢先、チームメイトが体調を崩し、代役として急遽『ブークル・デ・マイエンヌ(UCI2.2)』(フランス)への出場が決まった。ボトル運びくらいはできるだろうと軽い気持ちで現地入りしたにもかかわらず、康司の熱い血が騒ぎ、第1ステージで、アタックに乗ってしまった。その結果、5位でゴールした。第2ステージは、兄・晋一の助けを借りて上位でゴールし、ついに康司はリーダージャージを着ることになった。
「最終ステージは、チームメイトにコントロールしてもらったけれど、その隊列から何度も遅れそうになった。パンクで遅れたときも(新城)幸也が引っぱってくれて集団ゴールし、なんとか総合優勝できた。信じられなかった。自分は弱くて、チームのみんなが本当に強かった。他チームの手助けを受けずにレースをコントロールしたということで、フランスではこの総合優勝を高く評価された。浅田監督はチームプレーを重視し、他のチームに手助けを頼まずにやってきたから、この勝利は大きかった」
とチームで勝ち取った勝利を康司は強調する。

2006.6.20付の東京中日スポーツ 福島康司総合優勝を伝える記事

康司にとって2006年シーズンはこの1勝のみとなり、翌2007年は『ツアー・オブ・サイアム』で1勝した。
そして2008年。
康司は1勝もせずにシーズンを終え、ついに決断の日を迎えることになる。

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